ヒコーキ
数日、気持ちが落ちていましたが、なんとなく浮上しました。
まあ無理せずに。マイペースで. MY LIFE GOES ON
ツイッタランドを徘徊していたら、仏教ブログやってる人を見つけたよ!
人が幸せと感じるのは、努力が成果となったときと、自分が人の役に立てていると感じられた時なんだって
会社辞めることにして、上司にも行く末を心配してもらって、
人に恵まれているな~ホワイト企業だよな~何でやめるんだろうな~社畜が嫌だなんて単なるワガママなのかな~
なんてうじうじと負のサークルに落ちてたけど、
社畜がいや・・ていうのはつまり、
自分は誰の役に立っているのか?自分の仕事は何のためにあるのか?
てのが良く見えなくなってしまったということなのかなと、振り返って思いました。
働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり。。ということではなくて、
自分は何の役にも立っていないような気配が感じられて、誰にも必要とされていないように思って、辛くなってしまったということなのかなと思いました。
こら!そもそも自分が何かの役に立つ存在だと思っているのか?それこそおこがましいわ!
みたいな声も遠くから聞こえてくるんだけど、
でもこれは仏教ブロガーさんに言わせると、悪の声だそうなので聞かなくてよいのです。
宗教は、ツボをうりつけられたり、謎の合宿に誘われたりみたいな
怪しいイメージがあるけど、
本来はそうじゃないのよね。特に仏教は人生哲学なので、しかも千年以上の歴史ある学問なので、
いま少し学んでみたいなと思いました。
高校はミッションスクールだったものでね。仏教は異文化なのす。
さて昨日は田端の映画館まで足を運んで観てきました↓
比較的軽微な犯罪で収容されている刑務所の囚人が、
TC(Therapeutic Community; 回復共同体)というプログラムを受けて
自らの内面、過去、葛藤、現在と向き合う姿を2年かけて撮影したドキュメンタリーです。
数人の囚人にスポットを当てて、インタビューで少し内面を掘り下げるプロセスがあるんだけど、そこで子供のころや成長期を振り返ってもらっている。
親がいない子、いるけど放置されていた子、片親が何度も変わる子、記憶がない子などなど
いろんな環境で育ってきた人たち。
こどものうちは、かわいそうね(本人たちにはサバイバル)、なのだけど
おとなになると、世間の見方は変わって、”ろくでなし”となってしまう。
このプロセスは出所者の状況とも似ていて、
囚人の間は、罪を悔いて更生にはげむ(みずからと向き合う)のだけど、
出所すると、”前科者”となってしまう。
そして、そこから抜け出すためには、人一倍どころじゃない、死ぬほど努力を強いられるのです。
囚人も、いつか幸せになることを夢見るなんて、犯した罪の重さを理解していないようだ、そんなのだめだと感じる気持ちと、
幸せのための努力を自分で否定してしまうのでは前に進めない、それではまたいつか罪を犯してしまうことになるという気持ちと、
TCの学習の中で、囚人がお互いの対話を通して自己理解を深めるにつれ、ふたつの気持ちのあいだで葛藤する様子が描かれたりしてます。
印象的だった場面のひとつが、出所者が久しぶりに互いに集まってTCのプロセスを再体験するところ。
ひとりの出所者がふたたび万引きをしてしまっているというような告白をするんだけど、それに対して別の出所者が、「それは捕まっていないだけで(罪を犯しているのは)前と変われていない!」というような指摘をするんだけど、
捕まっていないだけで、という言葉にすごくはっとしました。
いじめも、虐待も、暴力も、差別も、村八分も、
これは罪です。
度を越さなければ捕まらないだけで。
この囚人たちはそのサバイバーだったんだけど、ある点でそれがひっくり返って
加害する存在となってしまったところもある。
身に引きつけて考えてみたりして、
たとえば飲酒運転をして、人をひいて殺してしまったとして、
酒を飲んでいたのになぜ運転をしたのか?と糾弾されて囚人となる。
一方で、ビールを友人宅で軽く一杯飲んで、自宅まで5分の距離を運転する。
捕まらないだけで、酒を飲んでいるのは同じ。私はどちらの場合も同じように糾弾されるか?自分は同じように反省するのか?
とかとか。
書物は素晴らしいな。何百面も前の思考を形に残すから。
感想を書くつもりが全くまとまってないけど、
とにかく思考のきっかけになる良い映画でした。
またね!